昭和46年11月21日 朝の御理解



 御理解 第65節
 「日柄方位は見るにおよばぬ。普請作事は、使い勝手の良いのが、良い家相じゃ。良い日柄と言うのは、空に雲のない、ほんぞらぬくい、自分に都合の良い日が、良い日柄じゃ。いかに暦を見て天赦日じゃと言うても、雨風が強うては、今日は不祥のお天気じゃと言うではな  いか。日のお照らしなさる日に良い悪いはないと思え。」

 信心を頂くということ、それは信心を分からせて頂くということ。分からせて頂いた事を実行するということ。そこから、本当のおかげが受けられる。本当のおかげを頂いて、本当の信心を伝えさせてもらう。この65節はお道のたくさんの教えのある中でも、とりわけお互いが間違いやすいところをハッキリと、いわゆる本当のな事を教えてある御教えだと。人間が間違いやすいところ。その間違いやすいところをハッキリと本当な事を教えて頂いておる。
 ですから、ここんところが私共の日常生活の上に、本当な事として分かって、それを生活の上に現されて行かなければならん。「日柄方位は見るに及ばぬ」。「普請作事は使い勝手の良いのが、良い家相じゃと」。例えば、それだけでも本当な頂き方と言う、本当な事を教えて下さってある。それに例えば、日柄方位を見る様な事。家を建てるのに家相を知ろうとしたり、見てもらおうとしたりすると云う生き方がどんなに間違った生き方かということを知らなければいけません。
 間違った事が天地に対する御無礼になり、その御無礼が積もり積もって、難儀な元を作って行くのですから、実はたったそのくらいな事の様にある。ただ、日柄を見ただけだと、暦を見ただけだと。例えば、家相。せっかく建てるなら、やっぱり家相の良いのが良いというような、例えば考え方を、この安易に考えておる。本当にちょっとした事の様に考えておるけれども、実を言うたらそれは大変な天地に対する御無礼な思い方であり、仕打ちである事を、私共が知らなきゃならん。
 それが天地に対する間違った事をすると言う事が御無礼になるのです。だから私共が間違った事と思っておる事が間違いではなく、たったこの位な思い方この位な事がと思う事が、是が天地に対する御無礼になっておる場合があるのです。ですから此処ん所が私はスッキリさせて頂くと言う事が、金光様の御信心の一番素晴らしい所だろうと、こう思います。窮屈なではなくて自分に都合の良い日が、良い日柄じゃと言った様なです。神様のおかげを自由自在に頂いて行けれる、ここが発端発端ですよねともなる所。
 天地の親神様の、いわゆる限りないおかげ、限りないお恵みをです、限りなく頂いて行く、何の障害もない、邪魔もないおかげを頂いて行くということは、自分に都合の良い日が良い日柄じゃというような頂き方なんです。そういう例えば良い日柄。それを間違った考えで、都合の良い日を都合の良くない日だというような考え方は、それはもう本当に、たった是だけの事。
 今日は日が良いから、日が悪いからというようにして、暦の上に現れた良い日を選ぶと言ったようなことは、もう既に天地の親神様の限りない、いわゆる自由自在なおかげを受けられるおかげを、締め出しておるようなことになる。そして窮屈な事になり、窮屈な思いをしなければならない。窮屈な生活をしなければならない。63節に「一粒万倍と言おうが。一人がおかげを受けたので、千人も万人もおかげを受ける様になるから、良い手本になる様な信心をせよと。」
 私は良い手本の第一はこの65節に教えておられる様な事がスッキリと分からせてもらい、それがスッキリと生活の上に現して行く様な生き方が、私は手本になる、成る程金光大神様の御信心の手本になる生き方だと思う。何か毎朝、朝参りが出けるお話を頂く、御用が出ける。それだけが、良い手本じゃない。良い手本と言うのは、天地の中にある神様のお働きを十二分に頂けれる姿勢、頂けれるその体制と云う物が、自分の思い込みの中にスッキリ出来ると云う事。
 日柄などを言い方位などを言い、家を建てるのに家相や等と言うておる、そういうことがですもう全然他愛もない事。それに例えば災いされて、それに引っかかって、例えば生活の上に少しでも支障を来すような事があれば、それだけ不自由であります様にです。もう、いわゆるおかげが、不自由なおかげしか頂けん様な大きな事になって来る。自由自在な、いわゆるおかげを受ける。その根本になる思い方。ここんところが、一つスッキリとさせてもらう。
 一粒万倍と、千人も万人もの者が、おかげを受ける様になると。そういう例えば、広大無辺なおかげを頂かせてもらえれる、その根本になるのは、ただいま65節に言っておられるようなところが、スッキリと分からせてもらい、それが信じられるということが根本になるもの。いわゆる、お道の信心は迷信打破の信心だというようなふうに言われる。その迷信打破の信心だと言われるのにも関わらず、その迷信その間違った事を信じておったり、それが心の中にあったりしたんでは、迷信打破になりません。
 誰だって、少しでも良い生き方をしたい、良い生活を頂きたいと言うその願いがある。日柄方位を見たり家相を見たりする事になる訳ですけれども、それが返って天地の親神様の御恩恵。しかもそれを十二分に受け止めれる心の状態を狭く、受け物を小さくして行くようなことになる。それを小さくして行くだけなら良いけれども、それがだんだん、積もりに積もって、天地に対するところの御無礼になって、人間の不幸せというような形になって来る。もう本当に簡単な事であって、大変な事です。
 ここのところを私は、繰り返しあの御理解3節を頂く時に皆さんにも聞いて頂くんですけれども。天地に対して無礼致しと仰っておる。それが、前々のめぐりで難を受けおると仰るのですから、もう実は大変な事なんですよね。氏子の家屋敷。宮寺の地所、みんな神の地所とこう。それを自分の物の様に思う。こう言う御理解3節を大変大事な御教えとして頂いておりますがね。その中の一番大事な、こういうところにも、今のこの65節は繋がって来るんです。
 天地金乃神と申す事は、天地の間におって、氏子おっておかげを知らずと。日柄方位といったようなことをいうことは、もう天地の中に、もう一杯遍満しておるおかげの中におって、そのおかげを知らぬ事になるのです。しかも神仏の宮寺、氏子の家屋敷、みな神の地所その訳知らず、方位日柄ばかり見て無礼いたし。その家柄その訳知らず、方位日柄ばかり見て、無礼いたしということになるのです。どこに御無礼になるかと言うと、天地に対する、神様に対する御無礼になる。
 しかも、それが前々のめぐりで難を受けおると。前々のめぐり合わせで難を受けおる。この度生神金光大神を差し向け、願う氏子におかげを授け、理解申して聞かせ、末々まで繁昌いたす事とある。金光大神は此処の所を分からせて下さる事の為に、金光大神が差し向けられたと言うても良い。金光大神がその為にです、此の世に出現なさったと言うても良い程しに、例えば65節というところは、大変なところ、事なんです。例えばここで私が申します、自由自在なおかげの受けられる根本になる所です。
 また是程確かな本当な事はないと言う。天地の中にそれこそ指一本でも、神様の指一本押すだけの所でも、神様の御恩恵に浴していない所はないと言う。その事をです分からせて下さる事の為に、この度は生神金光大神を差し向けられたと言う事にまでなってくる。私共が自由自在なおかげを、自由無を碍とでも言うかね。まあ先日から天衣無縫なおかげと言った様な事を頂いたですよね。そう言うおかげを頂くその根本になる物はです。この65節にある様な所をスッキリと分からせて頂いて。
 良い手本になる様な信心とは、そういうものが身に付けられて、行かなければ一粒万倍と言った様なおかげにならない。途中の、例えば御教えを沢山頂いて、それが一生懸命の修行をさせてもらって、毎日お参りをさせてもろうて、御用をさせてもろうて、おかげを受けると言う、成る程それはおかげを受けられますけれども。それはね所謂自由な、自由自在な、おかげということには繋がらない。願った事が幾つか成就するということに過ぎない。もう天地の何処からでもです、自由自在に頂いて行くと。
 言うなら必要なものが必要に応じて頂けて。そう言うおかげの頂けれる信心。その根本になるものは、所謂天地に対して無礼致しと言う、今までは知らなかった事とは言いながら、天地に対して無礼をいたし、前々の巡りでそう言う事がだんだん積もり積もり、重なり重なって難は受けよると。不幸せな事になっておると言う、所謂もうここは本当に、おろそかになり勝ちな所ですからね。たったそん位な事っちゃ無かろう様な気がするんですよね、実際は人間が不幸せになると言った様な事がです。
 まっ極端に言うと悪い事ばっかりするから、その悪い事の芽が出て、現在悪い事が起こっておるんだというような事じゃないのです。それか、もっともっと、それは人なら人に対して無礼、事柄なら事柄に対して無礼というような事っちゃなくて、天地に対する無礼。いわゆる、思い違い、考え違いをしておるところからです。思い違いをし、考え違いを、のまま例えば信心を頂いてもです、本当な物がスッキリと生まれて来るはずがないです。その、私共は思い違い、考え違いということ。
 神仏の宮寺、氏子の家屋敷、みな神の地所と仰っておられる、そういうところが分からなければ。それが本当な事である。その、本当な事を、私共が分からせてもらう。それが、私は手本になる様な信心だと、こう。簡単な事の様ですけれども、これは大変な大きなおかげを頂かせてもらう、自由自在なおかげを頂かせてもらう根本になる、いわばお道の信心をさせて頂く者の、いわゆる思想とでも申しましょうかね。
 ここのところ、一つ根底、根本にして、それから次の様々な御教えを受けて行く。そして日参りも良い、修行も良い、一生懸命な御用も良いという事になって来なければ、いわゆる、自由自在なおかげということにならない。ここんところがですね、分かっておる様であって、分かっていないんです。ね。その証拠に、例えばまだ、いわゆる日柄方位といったようなことやらに、普請をすると、やはりその家相の事がちょっと頭に引っかかったりすると。ここころを楽ではそれ非常に少ないですね。
 もうとそう言う生き方を此処ではが、いわば手本を示しております訳ですからね。けれども、他所の教会の中で、あの信心を長くしたと言う人でもですね、やっぱり縁談に相性を言うたり、家を建てるのに家相を見てもろうたり、日柄方位を言うたりする、そう言う思想がですね、残っておるです。だから本当にそうしてそれを、いわば簡単な事のよ様考えておる。信心なしよる、金光様の信心は、もう日柄方位はないち教えて頂くけれども、やっぱ見る物だけは見とかなきゃとか。
 やっぱりひょっとした事どんがあると、世間様から笑われるからと言った様なね、考え方をしておる人が多いんです案外。だからそれではね、本当に自分に都合の良いおかげと言う事に繋がって来ない。是は本当にそうですよ。ここんところを、一つ本気でスッキリと分からせて頂いときませんと、それに災いされるじゃなくて、もう信心の様々なところ、お道の信心の様々なところから間違うて来ることなる。だからそれを言うたり、したりする事が、その大した御無礼にならん様に思うとるですね。
 対して差し障りは無い様にあるけれども、そこんところが、御理解3節にあります様に、それが前々のめぐりと。例えば性根が悪かったとか、悪い事をしたとかと言った様な事がですね、その大した御無礼に、人間ですから、人間の道を踏み外すといったようなことは、決して誉めた事ではないけれども、それはどこまでも人間の道である。ですけれども、天地に対する所の御無礼と言うのは、そんな生易しいもんじゃない。それが前々のめぐりで難を受けなければならない様な元を作る程しの大変な事。
 それは繰り返し繰り返し、まあ言わなければならない所であり、また是を自分が手本になる様な私にならなければならない。そう言う例えばお道の信心の、いわば天地と私共との関わり合いと言うかね。天地の働きと云う物がどう云う物であるかということ」を、だんだん分からせて頂いて、その天地の働きに即応して行く生き方。真理とか法則とかと、こう申しますけれども、どんなに真理が分かり法則がわかって、法則に従うた生き方をさせて頂いておりましても。
 日柄を見たり方位を見たりしたら、もうそれだけでいわば値打ちのない物になって来るんですからね、大変な事です。例えばもう十年にもなりますでしょうか。あの耳納のあの、スカイラインが出けました時、途中ぐらいまでに出けた時分に、あれは正義先生と文男先生でしたでしょうか。私をあの自動車であの途中まで連れて行ってもらった事があるんです。ところが、丁度自動車が止まったところで、もう喉が乾いて喉が乾いて堪らんとです。山の頂上に普通水やら何やらはあるはずはありませんしね。
 そしたらそこへですね、何かあの冷蔵庫の様なのがこう、山の中にこうやって押し倒してあるです。それから元そこに何かお店か何かがあったか何かじゃないでしょうか。小屋が取り片付けられてから、あの冷蔵庫んごたっとがあるですから。是は冷蔵庫が倒れてこの中に入っておるかん知れんち言うてから、ちょいとあの、誰かが開けましたらね、すぐ開かる。そしてその中に、あの、コーラやらサイダーやらいっぱい入ってるんです。はぁちょいとここば見てごらんアンタ。
 耳納山のとっぺんでサイダーが、その時分沢山サイダーを飲みよる時分でしたから。ちゃんとサイダーが入っとると言うて、まあサイダーを頂いてから。だからお金はその松の枝に括り付けて帰った事がありました。それこそです山のこんな頂上にサイダーがあろうなどと思えなくてもです。もうそれこそ、自由自在です 秋永先生の所に、以前何日かお世話になった事があり、福岡支部が出ける時分でした。
 前の晩に少しお神酒を頂き過ぎてから、もう喉が乾いて、御祈念が終わってから御理解をこうさせて頂きよって、もう物が引き吊る様に。もう今日は喉が乾いて、乾いて仕様がない。サイダーば一杯頂きたいちお話流しよったら、梯子段を、こう上って行きよんなはる方がサイダーを下げて来よった、というようにですね、私が頂いておるおかげは、まあその、そう云うおかげです。
 是で例えばなら、お金である場合などは素晴らしい、もっと素晴らしいと皆さんが思われるだろうと思うんですね。先日からも特別にお金が50万ばっかり余分にいると言う。ほれで、御初穂を整理をなさる久富さんが、しかしこう今日は今日ばっかりはもう、やっぱちょっとこう、まあ事の僭主はあるまいと思うとったち。したら実際御初穂を開けて見る所がこうと50万別にお供えが。もうそれにもう思いもかけない人のお供えがちゃんとあってね、一つも事は言う事がいらないと言う様なおかげ。
 それはならそのサイダーとか、お金だけの事じゃない。もう全ての事がそういうおかげが頂けれるという、その根本になるのは、私がこげな修行をしたから、こういう御用をしたから、こういう熱心な信心をしたからということもあろうけれども、その私は根本になるところが、人の手本になるようなものをスッキリ頂いておったからだろうと、こう思います。今日はここんところの、自由自在なおかげ。言うなら、ここで天赦日という言葉が使ってあるが。何時もが天赦日であるという事。
 65節にあります。日のお照らしなさる日に、良い悪いはないと思えと仰る様な頂き方なんです。何時もが、何時もが良い日である。どこにも差し障りはないのだ。それを自分で自分の心で差し障りを作って行くというようなところに、おかげがそこに来ておっても、そのおかげを頂き止める事が出来ん。お互いが、言うなら天衣無縫の、自由自在なおかげを頂きたい。為に私共が、ただいま申しました。
 たったその位な事の様にあるけれども、それが、天地に対する御無礼になり、それが差し障りになり、それが前々のめぐりで難を受けるということになると同時にです。それが、差し障りになって、おかげがそこに引っかかって、こちらへ来んということになる。ですから大変な、私は事を教祖の神様は、天地の親神様からお知らせを頂いて、此のよ様なお知らせ下さってあるんだと。私共の思い違い考え違い、それが天地に対する御無礼にまでなって、私共の難儀の元にまでなって来る。
 そういうところを一掃して、そういう考え方、思い違い考え違いと言った様なものを、スッキリとさせて頂いて。一粒万倍。千人も万人もが助かる様なおかげの手本の根本になるものは、私そこであるとこう。金光様の御信心を頂いたら、そこのところがスッキリしなければならないにも関わらず、金光様の御信心を頂いておって日柄方位。普請作事に家相を見るといったような、そういう考え方そういう思想がです、私共の生活の上に災いをするのですから、残っておる様な事であってはなりません。
 本当な事の本当な事とでも申しましょうか。是はもう絶対の事で御座いますから、そこんところを一つスッキリ分からせて頂いて、それから信心修行。そこからいわゆる何時もが天赦日、何時もが良い日であると頂くところから、良いおかげが受けられる。何時も天赦日とは、神様に許されたという、冷たい物、水が飲みたいと言うなら、そこに冷たい水がちゃんと与え。
  〔途中切れ〕